福井・瀧谷寺の木造薬師如来坐像に奈良時代前半期の作の説 宝物殿で一般公開
福井県坂井市三国町滝谷の真言宗智山派の寺院である瀧谷寺(たきだんじ)に所蔵されている木造薬師如来坐像について、奈良時代前半期(8世紀前半)の作である可能性があるとの説を、仏像研究の専門家である大正大学名誉教授の副島弘道氏(74)が提唱しています。同像はこれまで平安時代後期または中世の作とみられていましたが、奈良時代の仏像の特徴がうかがえる造形であることが判明しました。これを受け、瀧谷寺では虫処理を施した上で、宝物殿での一般公開を始めています。
奈良時代の特徴を示す造形と都の一流工人の可能性
木造薬師如来坐像は高さ88センチ、髪際高76.5センチで、ケヤキ材の一木造りです。像は虫食いにより螺髪(らほつ)が失われ、顔や胸などに傷みがあるほか、左手首から先や右肘から先、下半身の両脚部などは近世にヒノキ材で補修されています。頭部から両肘までの体部はケヤキ材による造立当初のもので、漆塗りの表面も当初は漆箔(しっぱく)仕上げだった可能性があるとされています。
副島名誉教授によると、細身の均斉のとれた体や薄手の衣の流麗な表現、卵形の顔にわずかに残る穏やかな目と口角を上げて微笑む口を持つ独特な表情などに、奈良時代(710~794年)の仏像の特徴が見られるといいます。法隆寺五重塔東面塑造文殊菩薩坐像(711年)、興福寺乾漆造十大弟子立像(734年)、「東大寺法華堂塑造執金剛神立像および戒壇堂塑造四天王立像」(730~740年ごろ)との類似点から奈良時代の8世紀前半ごろの作と推定し、気品に満ちた造形から中央の一流工人の作である可能性を指摘しています。


総合的な調査研究を機に判明した経緯
同像は明治時代に塔頭の一つ「教授院」の本尊として祀られていましたが、教授院が角屋(現あわら市角屋)に移転したことに伴い、現存する塔頭「龍泉院」に移されたとみられています。

瀧谷寺に伝わる豊富な古文書や史料を対象として、2023年度から日本女子大学の藤井雅子教授らのグループが本格的な調査研究に着手しました。その一環として昨年、副島名誉教授が同像を調査し、今年3月に坂井市龍翔博物館で開催されたシンポジウム「越前国三国湊瀧谷寺と宗教ネットワーク」で研究結果を発表しました。坂井市龍翔博物館の笠松雅弘館長(70)も、奈良時代の仏像であれば貴重な発見であるとして瀧谷寺の文化財的価値を高く評価し、博物館として保存や調査研究に協力していく考えを示しています。
三国湊の古代史と瀧谷寺への継承背景

奈良時代の仏像がこの地に残る背景について、坂井郡には古代豪族の三国真人(みくにのまひと)が存在し、三国真人国継(くにつぐ)が天平神護2年(765)に墾田を東大寺に売進した記録や、『続日本紀』の宝亀9年(778)に高麗国からの使いが三国湊に来着した記述などがあります。副島名誉教授は、三国湊の重要性や東大寺の荘園としてのつながりが影響していると推察しています。また、南北朝期創建の瀧谷寺に像が存在する理由については、周辺にあった古寺から有力寺院である瀧谷寺に移され、受け継がれてきたのではないかとの見方を示しています。
虫害対策を経て宝物殿で展示、来年6月には秘仏開帳を予定

瀧谷寺の貝谷隆慧住職(52)は、副島名誉教授の指導を受けて虫食い対策を施し、宝物殿のガラスケースで一般公開を開始したことを明らかにしました。展示は当面の間行われる予定です。また、来年6月には同寺観音堂の本尊「如意輪観世音菩薩」の33年に一度の御開帳(11日~27日)が控えており、住職はあわせて参拝してほしいとしています。

瀧谷寺の概要は以下の通りです。

- 寺院名:瀧谷寺(たきだんじ)
- 宗派・山号:真言宗智山派、摩尼宝山
- 創建:永徳元年(1381)、睿憲(えいけん)上人による開山
- 主な文化財:開山堂(元亀3(1572)年建立)をはじめとする重要文化財建造物、国宝「金銅毛彫宝相華文磬(こんどうけぼりほうそうげもんけい)」、重要文化財「天之図(星図)」、国の名勝「瀧谷寺庭園」

本記事は瀧谷寺の発表をもとに作成しました。
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